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万年筆で書く
日々見て、ふれて、感じたことを、ウソのつけない筆記具で。since 2007.Feb.
2018/03/30(Fri) 10:48  実家のカレー
実家のカレー
【この投稿は、「雷屋」の文章を「白雨」が清書しました。】

●2018年3月30日(金曜)
「万年筆で書いてもらう その8」

実家のカレー

ガキの頃「今日は晩ごはん食べていきなさいよ」と
遊んでいた友人宅で誘われ何軒ものカレーを食べた。
その時の感想は「ウチとは違う味だな」だった。
当時はどの家もバーモントやジャワだったろう。
しかも素材の野菜や肉だってそんなに違わない。
作り手の手間のかけ方や手の抜き方、
水の量や煮込み時間の違いでそんなに変わるか?
そんなことをいま思い出している。
どこにでもありふれているのに
同じものに出会うことは難しいのですよ。

家庭の味が愛されるのはこういう理由もありますね。
自分の家のほかにその味がないというのは魅力的だ。
それが気に入っている味ならなおさらだ。
お宝は意外と身近にあるのかもしれません。

ちなみに、ガキの頃の我が実家のカレーがなにかと考えたら
肉は豚バラ肉のスライスで野菜は大きめカット
ルウはバーモントの辛口で粘度はややゆるめだったかな。
辛さが欲しいときには
アツアツのご飯の上に一味唐辛子をふりかけ
その上からカレーをかけてもらったはずだ。
「そんなに唐辛子をかけたらバカになるよ」と言われながらね。
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2018/03/16(Fri) 10:40  どんぶらこどんぶらこ、と…
どんぶらこどんぶらこ、と…
【この投稿は、「雷屋」の文章を「白雨」が清書しました。】

●2018年3月16日(金曜)
「万年筆で書いてもらう その7」

どんぶらこどんぶらこ、と…。

昔昔から、ある川の畔に村がありました。
変わり者の老夫婦の他は村人はみな臆病で
時折上流から流れてくる大きな果実を
見て見ぬふりをしては下流に流していました。
やがて大きな果実は河口近くの島に流れ着き
村人たちと交流を持たないまま数は増え
独自の文化を築くようになっていきました。
それに気づいた村人たちは異形の文化を畏れ
さらに「触れざる存在」として
無視した者を鬼、住処を鬼ヶ島と呼んだのでした。

僕らはもう少し
他者に関心を持ったほうがいいかな。
セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、
後はモンスターペアレントなどもそうだが
自分や自分の家族を過剰に守ろうとするのは
なんだか痛々しく見えるよ。

さて、言いたい事は言ったので
話題を変えて「どんぶらこ」ですよ。
「どんぶらこ」は水面を浮き沈みしながら
物が流れてくる様子を表す擬態語ですが
現代においてそのような場面に出くわしても
「怪しい箱がどんぶらこと流れてきました」
なんてことは言いませんよね。
多くは「ぷかぷか流れてきました」でしょう。
「どんぶらこ」の方がふさわしいのにね。
これはやはり「桃太郎」のせいですよ。
今更いい大人が真面目な顔して
「どんぶらこどんぶらこ」なんて言えないもんね。
だからみんな言わなくなってしまう。
そしてついに「どんぶらこ」は
単一の意味を表す言葉になってしまうわけです。

もしお知り合いに外国の方がいたら
こう伝えてみてください。
「日本語には、
人間の大きさほどもある巨大な桃が
川から流れてきたときにだけ使う
単語があるんだぜ」と。
きっと「クレイジー!」って顔をすると思いますよ。
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2018/03/09(Fri) 10:35  しめおでん
しめおでん
【この投稿は、「雷屋」の文章を「白雨」が清書しました。】

●2018年3月9日(金曜)
「万年筆で書いてもらう その6」

しめおでん

おでんが好きなのです。
練り物と少しの野菜と白滝で大満足。
寒くなるとしょっちゅう作るのですが
「今夜はシメまで食いたいな」となると
鍋の中のおでん種を計画的に残すようにします。
「アレとアレを残して作ろう」と。
残した種を包丁で細かく切って鍋に戻し
ご飯とともに「おじや」にするのです。
茶碗に盛って辛子をつけて、かっこむ。
思いきり辛子でむせたりしますが、至福なのです。

いやいや3月ですよ。
春になると「おでん」が少し遠ざかりますね。

さて、2行目に「練り物と少しの野菜と白滝」と書きましたが
オレのおでんは本当にこれだけで十分なのです。
要らないんですよね、ゆでたまごってやつが。
というか、卵料理の中で「おでんのゆでたまご」が最も嫌い。
ぼそぼそ感が強くなって口に合いません。
万が一入れるのなら、卵焼きのほうがうまいと思っています。
ふっくらとジューシーに焼いた出し巻き卵や
きざみ野菜を混ぜて焼いた薄焼き玉子などを
サッとおでんのつゆにくぐらせていただく。
こっちのほうがはるかに好みです。

以前、とある地方のおでん屋さんでは「ニラ玉」がありました。
おでんつゆの香りをまとったニラ玉をほおばり
冷やのコップ酒をくいっと放り込んだ時のうまさは絶品でしたよ。
「おでんといえばゆでたまご」という思いにとらわれずに
卵焼きでもお試しください。
そしてどうかぜひ、締めはおじやで。
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2018/02/22(Thu) 12:02  偶偶の偶然に奇跡を見る。
偶偶の偶然に奇跡を見る。
【この投稿は、「雷屋」の文章を「白雨」が清書しました。】

●2018年2月22日(木曜)
「万年筆で書いてもらう その5」

偶偶の偶然に奇跡を見る。

手のひらにサイコロをいくつか乗せて投げる。
出た目が全て揃おうが連続したものになろうが
それは偶然の結果であり、
その結果が出る確率は計算できるものだ。
しかし人間はそんな偶然にも奇跡や運命を見つける。
ある偶然に大それた意味をつけてしまうのは
人間の面白さなのか弱さなのかは判らないが
すぐにそこへ結びつけてしまうのは疑問だ。
起こりえない結果が出たわけでもなく
起きるべきことを目撃しただけなのに。

ここ数年、オレの周辺には
偶然に都合のいい理由をまとわせる人が増えている。
「……こんなことがあってさ、これはもう偶然じゃないよ」と。
瞳をキラキラとさせて訴えてくるのだが
どう考えてもそれは偶然だろうと思うのだ。
こういう方々に共通するのは奇跡のストライクゾーンの広さだ。
ここで一言申し上げておきますが
オレは宇宙に生命が誕生したことすら偶然だと思っている。
その確率が限りなくゼロに近かろうが
ゼロでない限りは起こっても不思議のないことだ。
まぁだからといって
「神はいない」と声高に叫ぶつもりもないけどさ。
そもそも「偶然の価値」をもう少し高く見積もったらどうだろう。
皆さんが軽々しく「奇跡」と口にしているような現象は
「聞いてよ、すごい偶然が起きたんだよ」でいいでしょう。
「奇跡」なんて言葉を軽々しく使っていると
宗教やスピリチュアルな世界の信奉者につけこまれるよ。
事を大きく考えすぎてしまうのはほどほどにね。
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2018/02/18(Sun) 15:40  礼と儀
礼と儀
【この投稿は、「雷屋」の文章を「白雨」が清書しました。】

●2018年2月22日(日曜)
「万年筆で書いてもらう その4」

礼と儀

悩み事やふとした意見を口にしたときに
「いやいや普通はそうじゃないよね」と
自分と違う考えを否定する人にいじられました。
いいんですよ、あなたの思う通りで。
と認めるのは難しいことなのかな?
あなたはあなたのままでいいのですよ、を
昔の人は漢字で「礼」と書き表し
礼を態度で示すことは「儀」と書いたそうです。
礼がなければ儀にもならず、
とても簡単に礼儀知らずになれるのです。

何か一言言ってやらなきゃ気がすまないってのは、まぁいいです。
でも、そういう性分の人の心がねじれていると厄介ですね。
アドバイスをいただけるのはありがたいです。
だけどアドバイスってのはなかなか難しい。
求められていないのに自分の意見を盛り込むと出しゃばりになる。
どんなに耳障りのいいご意見でも
そこを分かっていないと雑音にすらなりません。
面倒臭い時間を与えられてしまったので
他人に同じ思いをさせないよう気をつけたいものです。
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